甲子園球場の特徴として、選手たちが砂を記念に持ち帰ることがよく知られていますが、その外観のツタも同じくらい印象的です。
このツタは「ナツヅタ」として知られており、甲子園のシンボルの一つとなっています。
今回は、このツタが高速道路とどのような関係があるのかなど、意外な事実を掘り下げてみます。
高速道路と甲子園球場の意外なつながり
2024年8月7日に開幕する第106回全国高等学校野球選手権大会の舞台となる甲子園球場の特徴の一つに、外壁を覆うツタがあります。
このツタは、ただの装飾ではなく、環境保護や美観向上の役割を担っています。
1970年代から、日本の高速道路では景観の向上と環境保全のために植物による緑化が推進されてきました。
特に、壁面を植物で覆う「壁面緑化」が重視され、「ナツヅタ」という植物が多用されるようになりました。
しかし、ナツヅタの確保が困難だった当時、解決策として甲子園球場に自生していたナツヅタが選ばれました。
高速道路の緑化を支えた甲子園のナツヅタ
日本道路公団(現・NEXCO)の名神高速道路試験所は、1972年から2002年にかけて、甲子園球場から約43万本のナツヅタを提供され、これが高速道路の緑化プロジェクトに活用されました。
これにより、多くの高速道路が緑豊かな壁面を持つようになり、環境配慮の進展が促されました。
2007年のリニューアル工事に伴い、甲子園球場のツタは一時撤去されましたが、全国の高校に配布された苗から育った健康なものが選ばれ、2009年には再び球場を覆う役割を果たしました。
現在、再植樹されたツタはしっかりと成長し、甲子園球場の象徴的存在として観客に親しまれています。
ニューヨークのスタジアムをモデルにした甲子園の誕生
1915年に大阪豊中運動場で開始された全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高校野球選手権大会)は、数回の会場変更を経て、観客の増加により収容能力を超える問題に直面しました。
この問題を解決するため、大阪朝日新聞が新しい球場建設を提案しました。
当時の阪神電鉄専務、三崎省三氏は、世界に匹敵するスタジアムの建設を目指し、そのモデルとしてニューヨークのポロ・グラウンズを選びました。
この球場の設計は技師の野田誠三氏が担当し、1924年3月11日に着工し、4カ月半後の1924年8月1日に開場しました。
この新球場は、1924年が干支の「甲」と「子」が重なる年だったことから「甲子園」と命名されました。
初めは「甲子園大運動場」として知られ、アメリカンフットボール、陸上競技、サッカー、ラグビーなど多様なスポーツイベントの開催地となりました。
ツタの再生としての甲子園球場の象徴性
甲子園球場では、2007年から2010年にかけて、耐震補強と施設の改装を目的とした大規模なリニューアル工事が行われました。
この工事の一環として、球場の象徴である外壁を覆うツタが一時的に伐採されました。
このツタは、1924年の冬に初めて植えられ、球場の景観を形成する重要な役割を担っていました。
リニューアル工事では、8000畳にも及ぶ広大な面積をカバーするツタが完全に取り除かれましたが、球場側は「ツタの再生」を重要な目標として掲げました。
球場から取り除かれたツタの苗木は全国の高校に配布され、育成が行われました。
選ばれた健康な苗木は2009年に甲子園球場に戻され、再植樹されました。
これにより、ツタは再び球場の外壁を緑色に覆い、球場の新たな象徴として蘇りました。
現在、ツタは元気に育ち、球場の外壁の大部分を再び緑で飾っています。
甲子園の土と球児たちの思い
甲子園球場は、かつて白砂青松に覆われた美しい地でした。
この場所の土は、そのまま使用すると夏の明るい光の中でボールが見えにくくなるため、淡路島の赤土や神戸の黒土を混ぜてグラウンドが整備されました。
球児たちが甲子園の土を持ち帰る習慣は、1937年に熊本工業の川上哲治さんや、1949年に福嶋一雄さんが始めたとされ、これが多くの後進に受け継がれています。
この土は、多くの球児にとって青春の証とされ、その習慣は今も続いています。
甲子園と高速道路のツタ繋がり:まとめ
甲子園球場と高速道路の間には、環境保護や景観向上を目的としたツタの緑化プロジェクトを通じて、深い結びつきがあります。
このプロジェクトは、甲子園球場の歴史を新しい世代へと繋ぐ大切な役割を果たしており、球場の美しさを今に伝えています。
皆さんがこうした背景を知ることで、甲子園での試合がさらに特別なものと感じられることでしょう。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!